Reportふくしま(デジタル版)
コーヒータイム (浪江町から二本松市へ)
今は二本松市で就労継続B型の福祉作業所として、カフェの運営や、南相馬ファクトリーの「つながりのボールペン」の仕事をしている「コーヒータイム」さん。
2006年に福島県の浪江町でスタートしたが、東京電力福島第一原発の事故により、避難を余儀なくされ、一時は作業所がなくなってしまうのではないかと思う時期もありましたが、避難先の二本松市で事業を再開。今では二本松を拠点として支援を行っています。
代表の橋本さんに、避難先にできた復興公営住宅の前に出来た 「喫茶OBRI」で、震災から8年目の町の経過や作業所の状況を聞きました。
佐藤 「二本松に2件目のカフェを作ったと聞いて伺いましたが、近くにあるのは復興公営住宅ですか? 都会のベットタウンのようで違和感もありますね。」
橋本「えぇ、3階建のマンションが6棟あって、浪江町民の300人の165世帯が入っていて、後ろには津島診療所と老人のデイサービス、集会所の入っている建物があるのよ。」
佐藤「浪江町には人はあまり戻ってきていないようですが.....。」
橋本「それでも800人くらいは戻ってきているんだけど、高齢者が多くて子どものいる世帯は少ないみたい。町は新しく学校と認定こども園を作ったけど、送迎付きでも小学生8名と中学生3名ほど。震災前は人口は2万1千人いたので、厳しい状況が続いている。」
佐藤「それは、飯館村や南相馬の小高もいっしょのようですね。高齢者だけが戻るパターンが多い?」
橋本「仕事がある人はいいんだけど、やることがないと精神的に追い込まれて、亡くなる人もいる。このカフェも、ここに住んでる住民のコミュニテイをつなぐ居場所としてに作ったんだけど...。仮設は良かったとみんな言うのよ。大事なのは建物じゃないのよねぇ。」
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コーヒータイムの軌跡
2006年(平成18年)4月
・浪江町大堀地区で、主に精神障がい者のための作業所としてコーヒータイムがスタートした。
2011年(平成23年)3月
・東日本大震災で原発事故発生
・浪江町の全町民2万1千人が避難、利用者15名、職員5名全員避難。
・役所機能を津島地区→東和町→男女共生センターと変えながら、二本松市内に浪江支所を設け、多くの町民が二本松で暮らすが、作業所の利用者は各地に離散した。
10月 避難先の二本松市で再開 (利用者7名・職員4名)
・町で内部被ばく検査、甲状腺検査を開始。
2013年(平成25年)1月 市内の金色地区に金色事務所兼作業所を開設
・役場本庁舎内に仮設診療所を開設
2014年(平成26年)5月 二本松駅前、市民交流センター内喫茶店改装OPEN
・水稲の実証栽培開始 すべて基準値以下だった。
2015年(平成27年)3月 常磐自動車道が全線開通する。
・浪江のお米の販売開始。
2016年(平成28年)7月 金色事務所から若宮事務所(NTTビル)に移転
この時点で、利用者20名・職員9名となる。
・9月から特別宿泊、11月から準備宿泊ができるようになる
・10月 仮設商業施設(まちなかマルシェ)オープン
2017年(平成29年)3月 JR常磐線 浪江駅〜仙台間が再開する。
・浪江町内に「浪江診療所」と、二本松市内の復興公営住宅敷地内に「仮設津島診療所」が開所する。
・3月 町内の避難指示が解除される(帰還困難区域を除く)
2018年(平成30年)3月5月 喫茶OBRI(オブリ)営業開始
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戻る選択、戻らない選択
佐藤 「浪江から離れた土地に、これだけの受皿を作るということは、戻らない選択もありということなんでしょうか?」
橋本「町が町民に聞いたアンケートだと、約半数の人が戻らないと答えていて、町は浪江と避難先での生活も復興と考えている。どちらが正しいということではなくて、それぞれの選択を尊重して、町はそれを応援する方針なのよ。」
気になる数字がある。浪江の震災関連死の数だ。直接死182人に対して、関連死が419名と2倍を超え増え続けている。同じ津波の被害のあった相馬市の直接死は399人、関連死の数は11名と差は明らかだ。
原発事故でふるさとから離れ、仕事を失い、家族と別れて暮らすことでのストレス。橋本さんの周りにも、気丈に振舞っていた人が急に亡くなるケースが増えているという。死因として、先が見えない不安「フラッシュフォワード」という言葉が使われるようになった。
対策として、住民のメンタルケア、つながる支援が課題で、コーヒータイムは、浪江町との共同事業として、介護サロン・復興住宅サロン活動を積極的に行っている。
橋本「メンバーの志賀さんが、浪江に戻ったのよ。」
佐藤「本当ですかぁ! 仕事はあるんですか?」
橋本「就職したんだけどペースが合わなくて辞めてしまって、今は、1.5時間かけてコーヒータイムに通っている。」
佐藤「仲間や仕事って、本当に大切なんですね。」
橋本「私自身も浪江に戻って、障がいのある人たちが集まる作業所をもう一度、作りたいの。」
今は二本松市で仕事をしている橋本さんだが、浪江の自宅は住居制限区域にあり、浪江に住むことを断念し、新居を南相馬市内に建てた。約50キロ、片道1時間30分の通勤だ。
避難先に家を構えなかった理由は、ふるさとに近い土地で浪江を見ていきたいからだ。
震災直後、避難を余儀なくされた精神障がい関係の医療福祉関係者が、相馬市に避難していた橋本さんの家に集まって、キャンプのような作戦会議を開いていた。その後「相双地域に新しい精神科医療福祉システムをつくる会」ができ、「こころのケアセンターなごみ」など訪問介護の拠点につながっていく。橋本さんはコーヒータイムの再開のために二本松に移り、浪江町の復興会議のメンバーとして活躍しているが、、これからも地域のことを考えて活動していくに違いない。
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・原発事故の教訓を生かせるのか?
町のHPを見ると、震災当時の記録が残されているが、国や県、東京電力から原発事故の情報が町に伝達されることはなく、自分たちで避難を決めたとわかる。結果、放射性物質が飛散した方向の津島地区に避難所を設けたが、国は積極的に情報を公開することはく、住民は浪江に戻れず、難民のような状態が続いた。
今年の6月、震災時に浪江町長だった馬場有(たもつ)さんが亡くなった。馬場さんは、国や東電にはっきりモノ申して、町民の命と生活を守ろうとした人だった。浪江町の復興への道半ば、どのような思いであったか。
図案3 福島県の浜通り、浪江町と二本松、福島第一原発の位置を示す地図
浪江町の2010年の総人口は20,905人。
2018年7月末の居住人口は805人(527世帯)
・それぞれが災害を想定した避難計画を...。
震災から8年という時間が過ぎ、次々に災害がおきている。 災害時要援護者の避難などの課題が他人事でなく、自分たちの地域や施設の問題として、どのような対策を立てていくかが問われている。
京都のまいづる福祉会では、震災後に福島のボランティアに何度も入っているが、原発事故を想定した防災マニュアルを策定し、万が一の場合に奈良に避難する計画だと言う。高浜原発の20キロ圏内に事業所があり、他人事ではないのだ。
写真6 コーヒータイムの仲間の集合写真
・原発事故の責任は東電だけにあるのか?
東京電力に対する裁判では、津波に対する対策をしたかで責任を問うている。だが、原発事故を経験した者としての責任は、再び巨大地震と津波が起きた時に、そこに住む住民に同じ事が起きないようする事だ。浪江町は津波の対応に追われる中、原発事故が起きた。国や県からは情報はなく、テレビ等の報道を見て住民を避難させた。再稼働させる場合、全国の原発の事業所、その周辺の住民にその準備と覚悟はあるのか?
(レポート :佐藤定広)