Reportふくしま(デジタル版)
メッセージフロム南相馬
原発災害からの復興
南相馬の相談事業所「そらまめ」石田さんの話
震災、今も残る不安
▲相馬と双葉圏域の行政と相談支援とが集まった会合で、双葉地区のある行政の方が震災時の話をした。ある避難所で業務にあたっていた時に、ある医療支援が必要な障がいを持ったお子さんとその家族が避難してきた。その避難所では対応できず、その方々はそこから20キロ以上離れた郡山まで行くということになった。今となっては当時は仕方なかったということとしか、過ぎていたことなのでそうとしか言えないが、今また大きな災害のため避難をしなければならないとしたら、大丈夫であろうか。
現在、相談支援専門員である私は、もしそういう家族に避難を相談されたら、どうしょうと思うと暗澹する。その会議で、行政側に現場や地域の窮状を訴えたが、どこもその日の業務に追われ余裕はない。あれから7年、家族が分断され年老いた親御さんが、障がいを持つお子さんの行く末を切実に訴えているものの、どうしようもない現状です。
差別を受ける側になった経験
▲思えば震災後、放射能のために南相馬が機能不全になり多くの人が避難を余儀なくされた時、私はある家族を福島県の南の方へ避難させる手伝いをしました。情報がなく、山道を通って行きました。途中、浪江というところの津島(ダッシュ村のあるところ)で休憩をしました。立ち寄った集会所みたいなところに人は一人もおらず、ただ数時間前まで人がいたような雰囲気があり不思議な感覚でした。後日、そこが放射能の通り道だったと知りました。目的地の町の役所で手続きのため、いろいろ聞かれ「放射能に感染しているかもしれないので」と言われショックでした。感染したらどういう扱いをするのか、差別されている思いがしました。
熊本地震の支援で福岡に一泊して屋台に一人入ろうとした時、動悸が起こりました。少なからず、差別の記憶が行動に規制をかけたようです。
津波の被害を受けた宮城の人が、放射能からの避難者と勘違いされていじめの対象になったという新聞記事を見ました。かつて、広島から北陸に転校してきた子供が「放射能うつる」といったいじめを受けました。それも終戦から20年以上経ってからです。放射能事故のために今も家族が分断されています。家族みんなで避難出来これから頑張ろうとしてもいじめで命を落とされた方もいます。
過去の教訓を生かせるのか?
▲あの時・・・チリでの地震で小さな津波でも養殖業に被害がでました。そして、宮城沖地震がまた来るのではと言われていました。残念なのは、震災前の国会でインドネシア地震での津波を教訓に 日本の原発は大丈夫なのかとの質問があったが、その後対応に至らず。もしあの安全神話の原発さえ津波に対して対応していたら、他の団体・機関の考え方も変わっていたのではないか。あの時、救いだったのは新潟での地震を受け免震棟を作っていたことだ。過去からの教訓を学ぶ姿勢があれば、助かる命がある。
不屈の復興
▲松本清張の短編に終戦後、米兵に取り入ろうと女性を犠牲に、その前に自分たちがと男二人が取り合い、最後に自己の醜悪さに自決する話がある。読んだ後、沖縄の辺野古が基地になったら自分は同じことをしたことになるという思いがした。
その後、私は夢をみた。米兵が助けようと赤ん坊を抱えた女性に声をかけたが、女性は赤ん坊を抱えて断崖から身を投げた。海全体が赤く染まった。その後海は青く染まりそこに白いジュゴンの親子がいた。
私は今「不屈」のTシャツを仕事着で着ています。「不屈」は瀬長亀次郎の言葉に由来します。終戦後の米軍の統治下、沖縄県民による統治をめざし、武力や攻撃的な言葉ではなく、屈託のない笑顔で対話と運動で米国と渡り合い。そして、本土復帰後は中央政府と。
▲震災後、南相馬が福祉特区になり、優遇されることを望んでいました。甘い希望は夢と消え、全国的に災害が起き大変な状態で甘えたことは言えません。報酬改定での説明で「お金は医療と介護から何とか回しているのでしっかりして。削減は生活保護に迫って来ているからしっかりして。」と言われた。誰でも住みやすい地域づくりに障がい福祉がしてきた役割への認識がないのではないか。
▲最近、難病の方を何人か担当することになった。震災後の生活で障がいが重くなった。誰でも障がいを持つ可能性があることを忘れてはならないと思う。
そらまめ 石田宏之
図案3 石田さんの似顔絵 ぴーなっつを訪れたボランティアさんに描いてもらったもの
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